太陽はひとりぼっち

その日の出来事、思った事を綴るマターリ日記

その時歴史は動いた「川中島の戦い 引き分けの謎」を観た

7月26日放送のNHK「その時歴史は動いた」「川中島の戦い 引き分けの謎」は面白い視点だった。
パフォーマンス説と言うのは初めて聞いた。パフォーマンスで戦をするものだろうか?
甲斐も越後も国内で反乱が多いから、国内をまとめるために外に敵を求めた、なんて、アメリカ、中国、韓国じゃあるまいし…。だいたい謙信は、一度、越後を捨てて出奔している。とてもパフォーマンスで戦をやるなんて考えられない。

今回の「川中島の戦い 引き分けの謎」の番組内容についてをいくつか引用しながら振りかえってみる。

-信玄が国主となった頃、水害で悩まされていた-
武田氏が代々本拠としてきた甲府や石和は、地形的に洪水が発生しやすかったそうだ。釜無川と、そこに流れ込む御勅使川が急流で、豪雨になれば氾濫したそうだ。
信玄は父・信虎を追放した1541(天文10)年に、釜無川の堤防工事に着手。20年がかりで完成させた。
この治水工法はわが国の河川工学の礎となるほど優れたもので、その「信玄堤」は400年以上経った今でも、しっかりと治水機能を果たしている。

-信玄の言葉「戦いに勝って国をとり広げてこそ、家臣にも領民にも土地を与えることができるのだ」-
当時、農閑期に戦場に出ていた雑兵・小物にとって、合戦は絶好の稼ぎ場だったようだ。「乱取り」と呼ばれる戦場の略奪行為は、戦国の世では不文律で、合戦中は敵の領内で農作物を刈り取り放題、合戦後は褒美として武具や馬、女子供まで与えられたので、領民は喜んで遠征に参加したそうだ。武田軍は強く、自国が侵略される事もなかったので、合戦の度に領民は裕福になったという。

-政権を奪った直後の謙信は、豪族の謀反に悩まされていた-
長尾政景はアンチ影虎であったが、影虎が討伐の軍を発すると、すぐさま降伏。
配下の下平修理と上野家成が境界争いをする。これに大熊朝秀と本庄実仍に調停させるも、下平支持の大熊と上野支持の本庄が対立する。この大熊は、後に武田に走る。
刈羽郡の有力国衆、北条高広が武田につく。

-印判状について
東京工業大学の山室恭子教授は、印判状と領国経営の関係について研究しており、その中で信玄、謙信共に領国支配の強化に伴って印判状の発給が増加していることを指摘しています-

永禄9年6月頃から増加しており、その理由は、領国拡大に伴う職務分担の必要性があったことと、この時期に嫡男・義信の謀反が起こり、家臣団が動揺していた事もあり、家臣団の統制を強める目的もあったようだ。

-信玄は当時の最新兵器、鉄砲300丁を配備-
300丁はありえない…

-上洛と関東管領就任に向けての動き-
謙信は2度上洛している。
最初の上洛は天文22(1553)年。天文19年に、13代将軍・足利義輝から国主の待遇である白傘袋と毛氈の鞍覆いの使用を許され、天文21年には、後奈良天皇から従五位下弾正少弼を叙任されたので、そのお礼が主な目的だった。
2度目は永禄2(1559)年。正親町天皇と足利義輝に拝謁し、義輝からは、鉄砲の火薬製造に関する秘伝書を与えられた上、関東管領就任を許す内示を与えられる。
関東管領というのは、足利将軍の命により、鎌倉公方を補佐して東国の仕置き一切を執り行うのが仕事である。しかし、この頃は幕府は力を失い、関東の鎌倉府も滅び、関東管領は有名無実と化していた。
関東管領の上杉憲政は謙信の前に、常陸の佐竹義昭に持ちかけているが断られている。

-謙信は北条氏を討てと命じられた-
最初の上洛の時に、義輝から「隣国の敵を討伐せよ」との勅命を受ける。
関白・近衛前久の越後下向を受け、憲政と共に関東に討ち入っている。

-信玄は、北の川中島にこだわらず南の駿河に領土を広げる戦略を描き始めていた-
信玄は海を欲しがっていたのは事実のようだ。よく言われる塩はもちろんの事、経済的にも軍事的にも海は重要であった。事実、駿河を獲った時に江尻港を開発したし、水軍も編成した。

-「義を以て不義を誅する」-
謙信は「義将」と言われている。
謙信は7歳の時に禅寺に預けられてから8年間、禅僧になるべく修行をしていた。14歳の時、長兄の春景から春日山城に呼び戻される。
この時の禅行による人生観が、謙信を「義将」と呼ばせるものになったようだ。
もともと川中島の戦いも、信玄に追われた信濃守護職・小笠原長時や、北信の村上義清などの武将が謙信を頼ったからだし、上杉憲政を受け入れ、関東管領を継いだのも、「義」のためだ。
天皇や将軍家をないがしろにし、「義」にもとる者は許さない…。

-川中島の4度目の戦いで、犠牲者がそれほど多くなかった、という意見について-
「甲陽軍艦」をそのまま信じる訳にはいかないが、信玄の実弟・信繁や諸角豊後守などが戦死している事から、この度の戦は激戦であったろうとしたのかもしれない。確かに、先方衆として戦ったであろう村上義清は天寿を全うしている。

-キツツキ戦法のルートについての記録-
唯一、これだけは興味があった。確かに大軍が移動するには無理のあるルートだ。

-武田・上杉とも兵の8割が農民-
信玄は検地を行い、農村の住民を惣百姓(専業農家)、軍役衆(半農半武士)、御家人(専業武士)の3つに分けようとした。しかし、半農半武士の層が存在したため、後世のような兵農分離には至らなかった。

-信玄が病床で勝頼に告げたことば-
-信玄の死を悼む謙信のことば-

どちらとも「本当か?」と思わせる。
天正2年、謙信は家康の家臣、榊原康政に当てた書状に、信長と合議して、勝頼を滅亡するよう督促している。
しかし、天正5年、北条から佐代姫を輿入れして、甲相越同盟が成立している。この辺の経緯がよく分からない…orz

もっと丁寧に番組を作ってほしかったな。都合の良いところだけをつまみ食いしているようにしか見えない。娯楽に走りすぎたんじゃないか?…と言いつつ、こんな面倒くさい記事を書くのは、関係書物を読む機会ができるので、実は楽しいのである。
この記事を書くに当たって参考にした書籍を、以下に紹介する。

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